会長の時間
【2012-2013】
第2297回 例会
日時:2012/08/08
場所:ホテル白菊
会長:田中 俊一
今テレビはオリンピック一色です。私も毎晩遅くまで日本を応援してます。自分の生活とは直接関係ないのですが日本が勝つとうれしくなります。
8月6日は第67回の広島原爆忌です。明日9日は長崎原爆忌です。
宇佐に航空隊があったのは皆さんも知っていると思いますが、今日はそのことについて話してみたいと思います。正式には宇佐海軍航空隊といい、各地で飛行機の基本操縦訓練を終えた若者が実際の艦上爆撃機などを使って総仕上げを行うところです。1939年に作られたのですが戦争末期には、特別攻撃隊の基地となり、約3か月という短期訓練の後、敗戦までの4か月の間に154人の若者たちが南の空に飛び立ちかえらぬ人となりました。
柳ヶ浦在住の松木氏の<宇佐航空隊の世界>の中にこういう文があります。
凍てつく滑走路にはエンジンをふかせた飛行機が並び、白いマフラーを首に巻いた搭乗員たちが円陣を組んで立っている。吐く息も白く寒さに体が震える。盃に別れの酒を入れ、回し飲み、やがて盃を割ると,艦爆隊長が「出撃します、生きて再びお目にかかれないと思います。日本のためにお先に行きます」と挨拶します。山下艦攻隊長も唇をキッと結び青白い顔をしている。生きて再び帰らぬと決意する人は胸中に何を考え、何を思ったであろうか。万感を振り捨て国のため、後に残る国民のため、わが身を棄てに行く。私は感激で涙がボロボロ流れてきた,見送るものも声もなく黙って帽子や手を振るだけであった。
作家の城山三郎さんに<指揮官たちの特攻>という本があります。宇佐航空隊のことが詳しく書かれています。愛媛県出身の関行雄大尉は特攻第一号として、敗戦後に沖縄に飛び立った津久見出身の中津留達夫大尉はともに宇佐で学んだ同期です。特に中津留大尉は敗戦を知らされずに飛行機に乗ったのですが、何かの方法でわかったのでしょう、戦勝気分でパーティーをしている米軍に突入せず、部下とともに岩礁や、水田に突っ込んだそうです。もし敗戦受諾後に、米軍に特攻していたら、世界中の非難を浴び、もっと悲惨なことになっていたかもしれません。宇佐に近い別府は連合艦隊が寄港地にしている事から料亭が幾つもありました。その中の<なるみ>には千枚ちかくの海軍士官の色紙があったそうです。一番人気は山本五十六大将だったそうです。また中津の筑紫亭は今もありますが、座敷の床柱や鴨居には特攻隊員のつけた無数の刀傷が残っています。白刃をかざして斬りつける特攻隊員の声が聞こえてくるようだと、城山三郎は言ってます。そしてたまらなくなり「ごめんね、ごめんねと言いながらその刀傷を撫で続けたそうです。私もその刀傷を見たくて筑紫邸に行ってきました。城山三郎は何を謝ったのだろうか。海軍特別幹部練習生として終戦を迎えた彼は自分が生き残ったことに対してごめんねと言いたかったのか、あるいは彼らの死んでまで守ろうとした日本の今の現状を謝ったのかはわかりませんが、ただその刀傷を見てもわかるように、特攻隊員たちは、勇ましく国のために喜んで死んでいったわけではありません。実際は、彼らは悩み,煩悶し なんで俺が、と思ったそうです。知覧や靖国神社にある彼らの遺書は真実であるでしょうけどまたその遺書に検閲があったことも事実です。
私は昭和23年生まれで戦争のことは何も記憶にないのですが、戦争で死んでいった人たちの上に自分の生があるとはずっと思ってました。自分の原点だという気は今でもします。宇佐の掩体壕(飛行機の格納庫)は10個程まだありますが、民家の倉庫になったりしています。一部は観光用になっています。いずれも草ぼうぼうです。