会長の時間
【2019-2020】
第2598回 例会
日時:2019/08/07
場所:ホテル白菊
会長:岡田豊和
昨日、8月6日は広島の原爆記念日でした。この日は僕は必ず、こっそり黙祷を捧げます。今日は僕のルーツについてお話しさせていただきます。僕の母は筑豊の直方の出で実家は弁当屋さんで、折尾のかしわ飯を作る、東筑軒です。当時はまだ、東洋軒という名前で、祖父は直方駅に駅弁をおろしていました。母は2男3女の5人兄弟の長女で、よくお弁当作りを手伝っていたそうです。祖父は徴兵されずに、民間徴兵として、軍に兵隊さんの弁当を拠出していました。戦争の初期は、海の幸、山の幸がふんだんに食材として届いていました。時には近海もののマグロが1本まるごと届いて、祖父を困らせたそうです。ところが、戦争の終盤になり、徐々に食材が乏しくなり、いわゆる日の丸弁当になっていったそうです。その状況から、祖父は日本の敗戦を予感したそうです。もちろん口には出せませんが。それで、北九州の工業地帯に近い直方は、米軍の空襲を受ける可能性があると言う事で、昭和20年の6月に母達兄弟は、下の妹2人以外の3人と母の叔母と、従兄弟6人の計9人で、広島の遠縁を頼って西条と言う町から3里離れた山村の、戸野村に疎開しました。疎開先では、食べる事には困らなかったけれど、靴もぼろぼろになってわらじを履かされ、地元の子供たちに、ホイト(乞食)と呼ばれていじめられて、兄弟と従兄弟が一団となって対抗したそうで、今だにその絆は強く、年に何回かは寄り合いがあります。
さて、そうして迎えた昭和20年8月6日の朝、学校で国語の授業中、母が教科書を読んでいる時に、カメラのフラッシュよりも強い光が瞬き、学校の警鐘がカンカンとなり、生徒はみんな校庭に出て、母が住む西条からも、キノコ雲が見えて、空が鮮やかなピンク色になり、それから青色に変わっていったそうです。学校の朝礼で教頭先生が、「あの雲は、米軍の爆撃機が落とした爆弾に、日本軍の撃った高射砲の弾が当たったものです。」と言ったそうです。
実はその前日、喘息がひどくなった母の弟が、実家に帰るために、親戚の叔母に連れられ、直方に帰る汽車に乗るため西条の町に前泊していました。ところが、その日の深夜に、北九州の空襲がひどいため、母のすぐ下の妹が、母の祖母と一緒に戸野村に疎開して来ました。そこで、6日の早朝に使いの者が西条駅まで行き、すでに汽車に乗っていた母の弟を連れて帰りました。それで、僕の叔父さんにあたる母の弟は原爆にやられずにすみましたが、チッキで送られた荷物は汽車の中に残っていたため、広島駅で被曝しました。その後、米軍が広島と長崎に新型爆弾を落とした、と言う話が広がったそうです。西条にも被爆した方々が運ばれてきたそうですが、耳が溶けて無くなった人や全身がただれた人などを見かけたそうです。みんな日に日に症状が悪くなり、強いのどの渇きを訴えるも、水を飲むと死ぬと言う噂が流れていて水を飲ませる事もできずに、熱い、熱いと言いながら、亡くなっていったそうです。もしも原爆投下の場所が少しずれていたら、と考えるととても他人事とは思えず、この日はこっそりと黙祷しています。それから僕はこの話を僕の子供達や僕の従兄弟の子供たちに詳しくお話ししました。原爆の悲惨な経験をした唯一の国の国民として、この事は風化させてはいけないと言う気がするからです。この頃、日本を取り巻く世界情勢はなんだかキナ臭い様子です。ロータリーの活動を通して、この嫌な雰囲気を少しでも変えられないものでしょうか?